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「MERDE/メルド」は、フランス語で「糞ったれ」という意味です。このアクの強い下品な言葉を、フランス人は紳士淑女でさえ使います。 |
2008年10月16日/人生みたいだったドビュッシー・シリーズ 9 月27 日、ドビュッシー没後90周年記念の《ドビュッシー・シリーズ》全4回が完結した。最終回は、「音楽と美術のコラボレーション」。京都在住の型絵染作家、伊砂利彦先生がドビュッシーの前奏曲集に想を得て制作した24枚のパネルを映像で紹介しつつ、当該前奏曲を全曲演奏するという試みだ。 仕込みが大変だったのだ! 浜離宮にはスクリーンはあるが、プロジェクターはない。スクリーンも舞台の背面を覆ってしまうので音響的に問題がある上、どうしてもピアノの屋根が画面にかかるので具合が悪いとのこと。 オペラのプロンプターなどを扱っている専門の業者さんに、プロジェクターともども依頼することにした。 当日、11時にリハーサルに行くと、ステージの下手に衣桁が2台置かれ、伊佐利彦作の着物が2点飾られている。一枚は、京都芸術センターで同様の趣旨のコンサートに出演したとき、伊佐先生からいただいた「帆」(前奏曲第1巻の第2番)。もう一枚はお嬢さまに貸していただいた「水の精」(同第2巻第8番)。 この展示にも苦労した。ホールには衣桁の備えつけがなく、他のもので代用もできないと言われた。出入りの業者から搬入させると、運送料がとても高くつくらしい。そこで、ネットで検索していたら、中古の衣桁を安く販売しているショップが見つかったので、直接ホールに送ってもらうことにした。 舞台の上手上方にはスクリーンが下げられ、いつでも映像を出せるようにセットされている。しかし、タイミングが問題。 業者さんは、ドビュッシーの前奏曲を知らない。事前にCDを送っておいたものの、何しろいつ終わったのかわからない曲が多いから、なかなかむずかしい。とにかくリハーサルを始めてみたところ、案の定、まだ最後の和音が鳴っているのに画面は次の曲になってしまったり、曲を始めたのに画面が変わらなかったりする。第2回のとき連弾で出演してくださったピアニストの深尾由美子さんに、キュー出しをお願いすることにした。 映像問題は解決したが、衣桁の問題もある。大きく袖を広げた状態で架けるので、けっこう幅をとる。スクリーンが上手上方にある関係から、下手に並べて置くことになる。すると、ピアノを弾いていて微妙に視界にはいるのだ。最初のうちは、マネージャーさんが袖に立っているのかと思った。 リハーサルのとき、アーティストは練習に専念したいのだが、マネージャーさんは質問がたくさんある。客入れのタイミング、MCの有無とタイミング、譜面台の有無、アンコール曲、預けチケット等々。でも、本番前の演奏家はたいていピリピリしていて、なかなかきっかけがつかめない。椅子のうしろでぼーっと立っている気配を察したピアニストが練習を中断してふりむく・・・という運びになるものだ。 何回か振り向いたところで、衣桁であることが判明。もう少し端に寄せてくださいと頼んでみたが、これ以上寄せるとバランスがくずれるとのこと。今回の公演はヴィジュアルも大事なので、あきらめることにした。 そのかわり、マイクを置くスタンドはぜったい視界にはいらないよう、ピアノの後ろの影に置いてもらいたいと要望を出す。 ピアノを弾いていると、人間の視野は意外に広いことに気づかされる。ドビュッシー・シリーズ第1回のときは、前半はソロで後半は室内楽だったのに、前半から譜めくり用の椅子がピアノの左脇に置かれていた。ステージに出てはじめて気がついたが、そのまま最初の曲を弾いた。でも、どうしても気になるのて、2曲目の前に自分で脇に移動させた。そうしたら、せっかくいい感じで弾きはじめていたのに流れが妨げられ、しばらくの間演奏に集中できなかったのだ。弾きながら、演奏に集中すれば椅子の存在は忘れてしまうのだから、そのままにしておけばよかったとお腹の中で舌打ちする。もちろん、そのうち曲にはいりこみ、舌打ちしたことすら忘れてしまったが。 ドビュッシー・シリーズではいろいろなことがあった。起・承・転・結の「転」に当たる第3回(7月5日)はまさに転機で、前日に腰を痛めてしまったのだ。 その回はレコーディングも果たした念願のドビュッシー『12の練習曲』を演奏するので、ギンギンに入れこんでいた。何度もリハーサルを重ね、部分練習も積み、全体練習も重ね、本番一週間前にはもうこれで行ける! というところまで煮詰め、あとは疲れすぎないように練習をおさえ・・・とそこまではうまく行っていたのである。 前日、鍼灸の治療に行ったときに腰に多少疲労感があったので、そのことを言い、集中的に治療していただいた。いつもトラブルを起こす右手の中指と薬指の間の腱鞘炎もそのときは快調で、もっぱら腰の治療に時間を使っていただいた。 夕食の準備のとき、主人がお腹をこわしていて、通常の食事がとれないと言ってきた。私は前日はステーキを食べるのだが、主人のために卵とじうどんをつくることにした。豆腐を入れてほうれん草にきざみねぎ・・・などと冷蔵庫との間を往復していたとき、ちょっと体をひねるような動きをした際に、腰の内部で何かがずれるというか、接続が悪くなったような感覚が走った。ん? ちょっと変。そのときはそれですんでしまった。 次の日、起きたときは、少なくとも寝床の中では快調だったのだ。さぁ、やるぞーと闘志満々。しかし、起き上がって廊下を歩こうとすると、腰に違和感がある。歩行運動がうまく腰に伝わっていかないというか。無理して足を早く運ぼうとすると、昨日ずれた感じがした腰の内部に鋭い痛みが走る。 そこで、お風呂にはいることにした。暖めればよくなるかもしれない。しっかり暖めたが、やはり家の中ではそろりそろりという感じでどうにもスピードが上がらない。でも、ピアノの椅子に座ったところではとくに支障もなかったので、荷物だけは主人に助けを頼んで靴をはいて玄関を出たとたん、ほとんど歩けない自分を発見した。 整形外科にとびこむことも考えたのだ。でも・・・。ドビュッシー・シリーズはマチネといって午後2時開演。ピアノの調律を午前9時から開始し、11時にはアップする。開場は午後1時半で、リハのあとも少し調整するから、1時ごろにはにリハーサルを終了しておかなければならない。今回はクープランのクラヴサン曲とドビュッシーの練習曲というハードなプログラムだから、どうしても1時間半はリハーサル時間が必要だ。病院に行っているひまはない。座ってピアノを弾くぶんには大丈夫だろう。 というようなことで、荷物を主人にもってもらい、かたつむりのようなスピードで歩いて駅まで行った。そこでまた、不運が。人身事故で中央線の快速電車は止まっているとのこと。浜離宮朝日ホールに行くときは、中央線で神田か東京まで行き、山手線に乗り換えて新橋まで行って、そこからタクシーに乗ることにしている。大江戸線を使う手もあるが、地下にもぐるので乗り換えが面倒くさい。駅をおりてからも、ホール側の公称1分とは大違いで、けっこう時間がかかる。 7月5日は土曜日だったので、自宅の最寄りの駅に中央線の快速は止まらない。中野まで総武線で行き、そこから乗り換えて中央線に乗り換えるところ、そのまま総武線で秋葉原まで行き、山手線に乗り換えるしかない。問題は階段で、中野駅のホームにはエスカレーターがあるが、秋葉原にはない。でも、降りるだけなので何とかなるだろう。 ここで読者の方は不思議に思うことだろう。ほとんど歩けない状態で、どうして最初からタクシーに乗らなかったのだろう? 土曜日だし高速を使えばずっと早くホールに到着しただろうに。今となれば私もそう思うのだが、とにかくそのときは電車に乗ることしか頭になかったのだ。 30分遅れぐらいで何とか新橋駅にたどりつき、タクシーに乗ってホールの裏手に到着したときはほっとした。事務所入り口までは昇りのエスカレーターがあるはずだ。ところが・・・そこでまた不運。なんと、エスカレーターが故障していて動かないのだ。このときの昇りの階段の辛かったこと。手すりにつかまり、よろよろと這うようにして最上段まで昇りきった。 ふうー。こんな状態では、リハーサルでピアノの前に座ったときが一番楽! と感じたのであった。 本番は修羅場になった。前半はクープランのクラヴサン曲で、椅子にまっすぐ座ったまま体を左右に動かす必要が−ほとんど−ないので、ほとんど支障なく弾けたと思う。でも、弾き終えて立ち上がるのが大変だった。椅子の上に片手をついてもういっぽうの手をピアノの蓋にかけ、やっとの思いで立ち上がる。 MCで曲の説明などをするとき、立ったまでは辛いので客席に断った上でまた座る。そんな感じだ。歩くのは大変なので、ひとつの組曲が終わっても袖に引っ込まないで弾きつづける。 前半の最後、クープランにしては激しい『昔の吟遊詩人たちの年代記』を弾き終えたあとは、立ち上がったものの、まったく歩けず、ステージ中央で立ち往生してしまった。袖にいるマネージャーさんを手まねきする。とっさのことで何のことかわからないらしく、なかなか来てくれない。 何回か呼んだあとで、ようやく事態を察して助けに来てくれた。肩を貸してもらい、そろそろとステージを下がる。このときは担当のマネージャーさんは他の公演で留守で、入社したての若いマネージャーさんが付き添ってくれたのだが、おしゃれな靴をはいているなー、と足許に目をやってそんなことを考えていた。 休憩を20分にのばしてもらい、楽屋で必死にお灸をした。これで、ステージ歩行は可能になった。でも、左右の動きが多い『12の練習曲』は悲惨なことになった。とにかく、どこかで踏み切って上方や下方にぽーんと腕を飛ばすところでまったく踏み切れない、移動ができない、そのたびに鋭い痛みが走る、等々。改めて、ピアノを弾くためにいかに腰を使っていたか、ということを思い知らされた。 何度、もはやこれまで、と観念し、途中でやめておわびを言い、下がろうと思ったかしれない。でも、客席をハラハラさせながら最後まで弾きつづけたのには理由がある。 6月19日に札幌公演を行ったところ、お客さまの補聴器のスイッチ切り忘れでハウリングを起こし、突発性難聴になって『練習曲』を完結できなかったのだ。 このときはオール・ドビュッシープロで、プログラムの前半でアラベクスなどの小品とトーク、後半で練習曲や前奏曲など本格的な作品を弾くことになっていた。『アラベスク第1番』を弾き終えて、ドビュッシーの生涯についてトークをはじめたところで、ピーピーという音が耳についた。とっさに補聴器だなと思ったのは、以前に紀尾井ホールで開催されたポリーニ・プロジェクトで経験があったから。やはり原因不明のピーピーという音がして客先がざわつきはじめたころ、ホールの人がステージに出てきで事情を説明した。 補聴器のスイッチ切り忘れの問題は、当の本人は補聴器をはずしているのでアナウ ンスが聞こえないということにあるらしい。そこで、列ごとに聴衆を外に出し、音が消えたところで直前に外に出したお客さんの持ち物を調べるという手続きが必要になるという。 しかし、札幌のホール関係者もマネージャーも、補聴器切り忘れの経験がなく、原因に思い至らなかったらしい。私はトークの合間に、「何ですか? これは補聴器ですかね?」と誘い水を向けたのだが、対応のないまま進行することになった。 あとでお客さまにきいたところでは、補聴器は1台ではなく2台か3台あったらしい。そんなわけで、トークのときもピーピー、演奏のときもピーピーに耐えてすすめているうちに、耳の中がぐわーんとなって、頭中にセミの鳴き声のようなものが反射し、自分の音が聞こえない。演奏はボロボロになった。 事態を察したホール関係者が、休憩中にお客様に事情を説明し、補聴器のスイッチを切るようにお願いしてくださったらしい。 30分ほど休みをいただいたが、耳鳴りはおさまらない。でも、弾かなければ・・・。悲愴な思いでステージに戻ったが、ただでさえややこしい『練習曲』はやはり無理だった。第1番を弾いたところでわけを話して中止させていただき、前奏曲の抜粋を弾いてプログラムを終わらせた。アンコールはクープランを少し。 札幌の聴衆は温かく、アクシデントにもかかわらず払い戻しの要求はなく、また戻ってきてくださいと声をかけていただくなど、本当に感激してしまったが、あとにも先にも、こんな悔いの残る、悔しいコンサートは初めてで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 札幌のことがあったから、東京では絶対に練習曲を終わらせたかったのだ。もうひとつには、私は最後の「和音のために」がわりあいに得意という意識があり、最後まで行きつけば何とかなるだろうという一点の希望のようなものもあった。 客席では、激しく左右に移動する「和音のために」で私の腰が壊れてしまうのではないかと心配してくださったようだが、不思議なもので、片方だけに瞬間的に移動するより、左右に同時に移動するほうがよほど楽なのだ。 そんなわけで、何とか12曲を弾き終え、よろよろと立ち上がった。もちろん、気持の中は敗北感でいっぱい。入れ込んでいただけに悔しさもひとしお。この世の終わりのような気分だった。 でも、途中、何度となくこれで終わらせようかと考えるたびに、客席から支えてくださる熱い気持が伝わってきて、力を与えていただいた。 アンコールは体の移動の少ないものを中心に、ひたすら感謝の気持で弾いた。 クープランの『恋の夜鶯』『修道女モニカ』、「天使のピアノ」に収録したピエルネの『昔の歌』、そしてドビュッシーの『月の光』。弾き終えたとき、鼻の奥がツーンとしてきて、ちょっと涙ぐんでしまった(袖では激しく泣いた)。 いろいろな思いが交錯していたように思う。こんな失敗をしてしまったからには、もう弾けなくなるかもしれないという思い。それでも見捨てずに熱心に拍手してくださったお客さまへの感謝の思い。 もうひとつ不思議な感じがあった。運動的に支障があってぼろぼろだったのだが、そのぶん雑念は消えて、気持がストレートに音に伝わったような気がしたのだ。なんだろう、この感覚は? という新鮮な思い。 袖に戻ったとたん、音楽評論家の萩谷由喜子さんがとびこんできて、「よくやった−−大丈夫??」と抱きしめてくださった。 7月5日が終わったあと、すぐには休めなかった。一週間後に三重県立美術館で佐伯祐三展覧会がらみのコンサートが予定されていたのだ。整形外科や鍼灸、整体、カイロとあらゆる治療を試して腰の具合は改善されていたが、完治してはいなかった。 でも、三重美術館は、『ドビュッシーの時間』のレコーディングを実現させてくださった三重県立文化会館の梶館長のお声がかりだ。チケットもよく売れているときく。絶対にキャンセルすることはできない。 コルセットをはめて杖をつき、お灸とカイロをたくさんもって会場に行った。ドレスは2点用意していたのだが、前半は新聞の撮影があるというので、ウェストをしぼったドレスを着た。これだとコルセットははめられない。 杖をついてステージに向かった。前半はトークと演奏。佐伯祐三展にちなんで、以下のような話をする。 皆様、こんばんわ。 今弾いたのはドビュッシーの「アラベクス第1番、第2番」です。 本日は佐伯祐三展にちなむコンサートということで、私が専門に研究するフランス近代の作曲家ドビュッシーのピアノ曲を演奏しながら、芸術家とその時代というようなことについてお話していきたいと思います。 ドビュッシーは1862年に生まれ、1918年に57歳で亡くなりました。いっぽう佐伯祐三は1888年に生まれ1928年にわずか30歳で没しています。 佐伯がパリに留学したのは1924年ですから、ドビュッシーはとっくのとうに亡くなっています。佐伯が体験したパリを象徴する音楽家をあげるなら、それはサティであり、プーランクやミヨーなど6人組と言われる人々なんですね。 佐伯の伝記を読んだ私は、ひとつのエピーソドに強くひきつけられました。ひとつは1924年夏、フォービズムのボスだったヴラマンクを訪ねて作品を見てもらった佐伯が、「画風のアカデミズム」を厳しく批判されて方向転換したというエピソードです。 ここに、二人の芸術家の生きた時代の違いというのが反映されているのです。ドビュッシーの場合は前衛的に書きすぎるというのでいつも「アカデミー」から打ち首獄門の科で追いかけまわされていました。ちょうど佐伯が生まれた1888年ごろのことです。 最初に弾きました「アラベスク第1番」は、独創的なドビュッシーが前衛的な作風を捨て、いわば「売る」ために書いた曲です。貧しい家に生まれたドビュッシーは、作曲家の登竜門であるローマ大賞に応募し、やっと3回めで大賞をかちえると奨学金を得てローマに留学したものの、2年で戻ってきてしまいます。 それからはボヘミアン時代で、ロンドン街の貧しい屋根裏部屋に住み、お針子の愛人と一杯のココアをわけあいながら「売れる」ピアノ曲をせっせと作曲しました。 「アラベスク」は100フランで売れたといいます。1フラン千円の時代ですから、けっこうよい収入ですね。でもいっぽうで、彼が真価を発揮する「忘れられた小唄」や「ボードレールの5つの詩」などの先鋭的な歌曲は、独立芸術書房という前衛芸術家を支援する書店から自費出版するしかありませんでした。そして、彼のボヘミアン時代の傑作である「弦楽四重奏曲」は200フラン、不朽の名作「牧神の午後への前奏曲」ですら250フランでしか売れなかったのです。 いかに芸術家にとって、思い通りの創作をするということがむずかしいかおわかりになるでしょう。 それでは、もうひとつ「パンのために」書いた作品「夢」をお聞かせしましょう。 この曲は1890年の作です。それでは、まったく同じ年にサティはどんな曲を書いていたか・・・。サティはドビュッシーの4歳下なだけですが、有名になったのは20世紀にはいってからです。彼は「売れる」ということを気にもとめず、文学キャバレ「黒猫」の伴奏ピアノを弾き、一時期はユトリロの母親シュザンヌ・ヴァラドンと恋愛関係にあったこともありますが、赤貧洗うがごとしの生涯を送りました。 「夢」と「グノシェンヌ」を比べたら、絶対にサティのほうが新しいです。拍子のない作品というのは当時は画期的でした。サティの商業主義をまったく配した作風はドビュッシーも深く愛し、「ジムノペディ」をオーケストレーションしています。 「ベルガマスク組曲」の「月の光」も1890年ごろの作品です。この組曲は制作年代が長く、1890〜1905となっているので「長く推敲を重ねた作品」とかバカなことを書いている批評家もいますが、真相は次のようなものです。 もともと「月の光」は「感傷的な散歩」とタイトルづけられていました。ドビッュシーにもかなり感傷的なところがあったようです。最初の妻リリーは夫について「知性的というよりは官能的でかなりセンチメンタル」と評しています。 1902年に唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」を成功させたドビュッシーは、一躍一流作曲家の仲間入りをします。百フラン単位の作曲料が一挙にケタが上がって何千フランもらえるようになりました。 やっと本当に書きたい作品が書ける! 勢い込んで彼が作曲したのが「版画」でした。 こんな感じでトークを入れながら弾きすすんだ。客席の反応はきわめてよかったものの、内情は大変だった。リハーサルのときは気づかなかったのだが、ピアノを弾いているとちょうど真うしろから冷たい風が吹いてくる。腰を痛めてから、ちょっとした風でも非常に辛く感じる。用心してカイロを入れておいたのに、どんどん冷えてきて、ついに体幹が氷ついてしまった。結局、このときも前半のプログラムの中で移動の多い『雨の庭』だけをキャンセルして休憩にはいった。 楽屋で必死に患部にお灸をすえ、コルセットをしっかりしめて、ずぼんとしたドレスを来て、再びステージに戻る。今度は大丈夫! 後半は、前奏曲集第1巻と第2巻を抜粋で演奏した。トークでは、佐伯がパリに出てきた1924年ごろの時代背景について解説したが、客席に配った年表(日動画廊主催の佐伯祐三展が国際フォーラムで開かれたときのシンポジウムで作成したもの。1920年代について、音楽・文学・美術・バレエ・舞台芸術の各シーンをドッキングさせている)が好評だった。昨今では、音楽と文学、美術はそれぞれ分けて評論される傾向が強いのだが、「狂乱の20年代」ばかりはすべてが渾然となって発展していたため、ジャンルを越えた知識が必要になってくる。当夜のお客さまは、そうしたちょっと踏み込んだ内容にもじゅうぶん対応できるレヴェルだったといえよう。 後半のプログラムは無事完結させ、アンコールも弾き、サイン会にはたくさんの方が集まってくださった。東京ではあまり売れない「むずかしい本」もたくさん買ってくださる。一番嬉しかったのは、まだ増刷していない『無邪気と悪魔は紙ひとえ』(白水社)がよく売れたこと。表紙に佐伯祐三の「人形」を使っていたことが功を奏したのかもしれない。 終了後は、梶館長夫妻にとてもおいしいおでん(創作おでん風で、「トマトのおでん」というのは初めていただいた!)をご馳走になり、幸せな気分で帰途についた。 三重のコンサートが終わったあとは、夏休み。連載の執筆や単発でくる原稿依頼をこなしながら、ピアノは少し休んで治療に専念した。お盆で田舎に帰ったときは、飛行機を使えない路線で、在来線の特急の座席が腰にこたえたのと、古い家での和式の生活がやはり腰を酷使するので、少し悪化させてしまったが、何とか乗り切った。8月23日には以前から決まっていたピティナの全国大会の審査があり、こちらも朝から晩まで座りづめなのでかなり辛かったが、カイロを入れてショールをぐるぐるまいて乗り切った。 一番こたえたのは、9月7日のCD「天使のピアノ」の編集である。メルド日記でもご報告したとおり、演奏の収録はすませてあったが、元所有者の石井筆子さんがアンデルセン童話を再話したものや、私の書いたコラム『感覚指数』などを組み込むことになっていて、その収録をおこなった。朗読そのものはとくに問題もなく、それぞれ2回ぐらいずつで終わったのだが、そのあとでテイクの編集があり、これが夜までかかってしまった。 天使のピアノは古い楽器なのて、どうしても音の狂いやタッチの乱れが生じる。そうした印象を最小限にくいとめて、しかも聴いてくださる方にやすらぎを感じていただけるような作品にするためには、それなりに努力が必要だ。 楽しい作業ではあったが、終わったときには、また腰に痛みが出てしまった。無理もない、あまり具合のよくない椅子に長時間座りつづけだったのだから。 編集中にものすごい雷雨があり、小田急線が遅延していた。レコード会社の最寄りの駅で長いこと待ち、新宿で乗り換えて家にたどりついたときは息もたえだえ・・・というのはちょっと大げさだが、そのぐらい疲れ果てていた。 こんなふうに腰に悪いことばかりしていたのだが、ドビュッシー・シリーズ第4回が開かれた9月27日は快調だった。またお天気がよく、空気もからっとして気持も高揚していた。 コルセットははめず、カイロだけ入れてステージに臨む。前半は『前奏曲集第1巻』。「デルフの舞姫」の和音を弾いたときから、ピアノがよく鳴っているのがわかった。あまり無理はせず、楽器に弾いてもらうような気持で弾いていった。不思議なもので、演奏がうまく行ったときは、あまり語ることがない。気持がよかった、それだけだ。 中でも6曲めの「雪の上の足跡」では、何も考えず、音楽の中にそっくりはいりこむことができたように思う。この曲は、レコーディングのときには、実はあまりうまく行っていない。収録中は一世一代の名演をしているつもりだったのだが、テイクを聴いてみると、その意識が邪魔になって、表現がうわすべりしている。どこかウソの部分がある。 27日のステージでは、なんの思い上がりもなく、伊砂利彦の型絵染作品の、ただ白い雪の上に木炭でデッサンした足跡めいた図形が点々と並んでいるだけ・・・という境地で弾けたように思う。 『前奏曲集第1巻』というのは、全体で見たときに構成がなかなかむずかしい作品である。「帆」や「音とかおりは夕暮れの大気に漂う」のように世紀末デカダンスを感じさせる怪しげな曲のあとに、「アナカプリの丘」のようにあっけらかんとした曲がつづく。その後も、「雪の上の足跡」のように精神分析を必要とするような虚無感に満ちた曲、甘美な「亜麻色の髪の乙女」、激しく暴力的な「西風の見たもの」とつづき、深遠な「沈める寺」のあとに、コミカルな「パックの踊り」と「ミンストレル」が配されている。 これらすべてのキャラクターに反応するピアニストというのは、相当分裂していると言わなければらならいだろう。 個々の楽曲をすばらしく演奏するピアニストはたくさんいるし、見事なディスクも多数出ているのだが、この「分裂」に関してはなかなかクリアされていない。 27日はかなりこの点がうまく行ったように−−密かに−−思っている。もちろん、これは私なりのドビュシッーを弾くときの価値観なので、普遍的なものではないのだが。 がっちり構成された第1巻に比べて、第2巻はかなりゆるい。そのことは、両方をつづけて弾くととてもよくわかる。ブーレーズが「20世紀と音楽の扉をあけた」と評した「霧」をはじめ前衛的な作品も多い。音響的には大変興味深いのだが、1巻の「亜麻色の髪の乙女」のように耳なじみのよい曲も少ない。伊砂利彦の作品も音楽にあわせて抽象的になるので、客席も多少退屈したのではないだろうか。 しかし、技巧的には2巻のほうが派手で、とくに終盤は、第11曲「交替する3度」、第12曲「花火」と、それなりに聴衆に強いインパクトを与える曲が並んでいる。「花火」の最後では二重グリッサンドが炸裂するのだが、あまりに力をこめすぎて椅子が少しずれてしまった。あぶない、あぶない。もう少しずれていたらころげ落ちるところだった。 さかんな拍手をいただき、アンコールへ。ここで初めてマイクをもち、伊砂利彦と型絵染について、ドビュッシーとの親和性について、実際の作品を見ながらレクチャーした。 音楽シリーズ以前の作品として、河津七滝に取材した「瀬」という名作を紹介しつつ、ドビュッシーの『水の反映』を弾いた。ついで、同じ作品を着物に応用した「流れ」を映像で出しながら、ショパンの『ノクターン第2番』を弾いた。もともとショ パンは苦手なのだが、このときは妙に心がやすらぎ、音楽に乗って演奏できたように思う。といっても、私はあまりルバートをしないので、濃厚な演奏にはなりようもないが、とにかく楽器がとれとれの魚のようにイキがよく、とても気持ちがよかった。 ついで、映像では伊砂作品の大作「月之道」を映しながら、「天使のピアノ」のことを話し、CDに収録したレヴィの「子守歌」と美智子皇后陛下作詞の「ねむの木の子守歌」(小原孝編曲)を弾いた。そこで終わりのつもりだったのだが、あまりに気持ちがいいので、戻ってきてシューマンの『トロイメライ』。 くり返すたびに表情が少しずつ変わるシューマンの繊細な心のひだが、ほんの少しは表現できたかなぁ。シューマンも超苦手なはずだったが、6月の天使のピアノのレコーディング、札幌公演、7月のドビュッシー・シリーズ第3回、その直後の三重美術館コンサート・・・と経る中で、私自身が少しずつ変容してきたのかもしれない。 母の死ではじまり、途中で体調をくずし、そして何とか復活・・・と、まるで人生みたいなシリーズだった。 ステージを下がったところ、楽屋への道で小山実稚恵さんが迎えってくださっていて、思いがけないことで感激してしまった。超多忙で、前の日には福岡で公演があったはずなのに。 小山さんが私のリサイタルを聴いてくださるのは、1997年以来のことだ。このときは、映像第1集、第2集と前奏曲集第1巻を弾いた。ちょうどドビュッシーの評伝が出る直前で、もう書くほうでやっていけるだろう、これを機にステージ活動は終わり、と密かに心に決めていた公演だった。 それから11年。文筆との両立に苦しみながら細々と弾きつづけることになり、そのおかげでまた聴いていただけたことをすなおに喜んでいる。 |
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