2009年1月8日/パリ近郊のコンサート
2009年は喪中のため、新年のご挨拶は控えさせていただきます。
2008年9月に《ドビュッシー・シリーズふたたび》全4回を終えたあとは、楽しいことばかりだったような気がする。
10月4日は鎌倉文学館で開催された吉田秀和さんの企画展「音楽を言葉に」のオープニングにお招きいただいた。秀和さんの子供のころの写真(目つきがただものではない)や、和服姿のお母さまがピアノを弾いている写真、中学校時代の通信簿まで展示されている。桐朋学園の音楽教室時代の秀和さんが、子供たちの遠足に付き添って中村紘子さんと写した写真もおもしろかった。
秀和さんも展示を見ながら、いろいろ昔話をしてくださる。新聞社のカメラがその姿を追う・・・というところで、朝日新聞の神奈川版に載った写真を見たら、秀和さんの横顔の鼻の先に私が写っている。記事を書いたのは支局の記者さんだが、その記者さんが新聞を送ってくださり、「何だかピントは青柳さんに合っているみたいです」と書いてあって大笑い。
9日は、白水社の編集さんや営業さんと仕事の打ち合わせをしたあと、阿佐ヶ谷の海晴亭でたこ焼き&ベルギービールを楽しんだ。へんてこな取り合わせだが、このお店はこれがウリなのだ。
10日はサンケイ新聞の清原武彦会長さん、文芸評論家の新保裕司さんと会食。渋谷のお店はピアニストの横山幸雄さんがオーナーをつとめる(すごい・・・)フランス料理のレストランで、とてもステキなプレイエルのグランドが置かれている。シャンパンやワインで酔っぱらう前にクープランやドビュッシーを少し弾いてみたら、とてもよい響きがした。
13日は友人のジャズ・ピアニスト、島健さんのお招きでサントリー大ホールでの「ジャズ・ピアニスト6人の競演」。山下洋輔さんや国府弘子さん、小原孝さん、佐山雅弘さん、塩谷哲さんに島さんを加えた6人のピアニストが、ジャズのスタンダードナンバーをメドレーで演奏したり、ラヴェル『ボレロ』やガーシュウィン『ラプソディ・イン・ブルー』を6台のピアノで競演したり、丁々発止のやりとりを楽しんだ。なかでも笑ってしまったのは、小原孝さんと国府弘子さんのデュオ(というよりじゃれあい)による『ねこふんじゃった』パラフレーズである。
山下洋輔さんは真正(?)ジャズメンで、楽譜を読むのが苦手。即興は何だかなぐり弾きみたい。島健さんもクラシック畑を通っていないが、作曲家にしてアレンジャーでもあるので、もちろん楽譜は読める。ガンガン叩くというジャズ・ピアニストの通念をくつがえして、とても音がきれい。国府さんと小原さんは国立音大のピアノ科卒、塩谷さんは芸大、佐山さんは国立の作曲家卒・・・というわけで、それぞれのスタンスの微妙なずれがとてもよい味わいを生んでいたように思う。
25日はカワイ青山サロンで、日本ショパン協会主催によるロマン・デュシャルムさんのリサイタルを聴いた。フランス関係者を招いたこのリサイタル、実は、招待名簿づくりに私も少しご協力させていただいたのだ。パリ音楽院の伴奏科を卒業したデュシャルムさんは、自分で編曲したラヴェルの『ラ・ヴァルス』を見事に演奏。色彩感、リズムの浮遊感がすばらしく、ラヴェルがこめようとした古きよき時代へのノスタルジーやグロテスクな味わいもじゅうぶんに反映されている。
演奏後はささやかなパーティがあり、コンセール・パリ・トゥキョウで日仏の交流に尽力なさっている野瀬百合子さんや、パリで、やはり日仏交流のサロンを開いている斉藤真由美さんにもお目にかかり、話がはずんだ。
29日は、朝日の書評委員時代にごいっしょした経済学者・松原隆一郎さんのお声がかりで、阿佐ヶ谷の料亭「みやの」で羊を食べる会に参加。阿佐ヶ谷在住の建築学者・陣内秀信さんや、そのお弟子さんでウズベキスタンの建築について研究中の学生さんもいらしていた。うちの娘もイスラム好きで、一人でウズベキスタンやモロッコを旅行しているし、私も娘とカイロを歩きまわっているので、少しはお話についていくことができた。
かんじんの羊肉は、私もときどきネットで利用するラム善さんがわざわざ飛行機で運んできてくださった新鮮なラム肉やレバー、ハツのさしみがどっさり出て、オリーブ油と岩塩をつけてたらふくいただいた。先ごろ「イラクは食べる」(岩波新書)を出された外語大教授の酒井啓子さんのレシピにもとづく煮込みも最高だった。
次の日は午前中に安川記念会の世話人会で、2009年以降の会の活動についてお話しあいをした。午後は中央公論新社に赴いて、来年出すインタビュー集の打ち合わせ。
11月7日はサンデー毎日の書評の件で編集部を訪れ、毎日新聞社内のレストランで、おいしいカキ飯をごちそうになった。食後は屋上に出て、日光浴をしながらライオンズの話で盛り上がった。私は昔の西鉄ライオンズが好きで、短波ラジオで中継の追っかけをやっていたのだ。まさか、ちょうどそのころ、TBSテレビのキャスターを長くつとめた筑紫哲也さんが亡くなっていたとも知らず。
13日は「中央公論」2月号のグラビア「私の仕事場」の撮影。ピアノ雑誌で「ピアニストの部屋」的な撮影がくると片づけるのが大変なのだが、モノ書きの部屋は基本的に散らかっていてよいことになっているようなので、ほとんどマンマで撮影。床には楽譜のぎっしり詰まったダンボール箱、ピアノの上にも楽譜の山、ソファの上にはハンドバックやらドレスやら書類やらが堆積していて、歩くことも座ることもままならぬ部屋である。まだあいているのは、ピアノの鍵盤の上だけ! ここまで何かが乗るようになったらおしまい。
15日は中央公論新社から刊行予定のインタビュー集にも登場願うことになっている岡田博美さんのリサイタルで東京文化会館小ホールに。前半はシューマンの『子供の情景』と『交響的練習曲』。『子供の情景』の親密なフレーズ感が印象に残った。
後半は2008年が没後50年というフランスの作曲家フローラン・シュミットのピアノ曲。フローラン・シュミットは、エドガー・アラン・ポーにもとづく『幽霊宮殿』というオーケストラ曲や、『サランボー』にもとづく映画音楽も書いているから、耽美的でおどろおどろしい作品を予想していたのだが、ピアノ曲は『ちぎれた鎖(ピアノのための組曲)と『幻影』というタイトルにもかかわらず、あんまりお化けっぽくなかった。
岡田さんは、フォル・ジュルネでアルベニス『イベリア』全曲を聴いたり、矢代秋雄没後30周年リサイタルでソナタを聴いたり、世間一般で思われているよりずっと幻想的な奏出に秀でたピアニストだと思うし、どんどん表現の幅をひろげている。でも、「桐朋のポリーニ」のレッテルは根強く、いまだに超絶技巧のピアニストとしてしか理解されていないようなところがあってとても残念だ。
16日は、福井県音楽コンクール創立60周年記念講演の仕事で、福井に行った。副科声楽の恩師、瀬山詠子先生からのご紹介である。講演は午後2時から1時間で、そのあとコンクールの過去の入賞者によるコンサートがある。仕事はそこまでなのだが、福井といったら母方のご先祖さまの遠縁に当たる朝倉氏が戦国時代におさめていた地だ。ネットで検索すると、一乗谷の遺跡では当時の町並みも再現されているらしい。この機会に是非見学したいものだ・・・そんなことを世話役の坪田先生にお話したら、案内役まで買って出てくださった。
講演は「音楽を学ぶ若い方々への提案 〜〜よく聴き、よく感じ、よく考えること」というお題でおこなった。先生のいいなりに弾かないで、自分でテキストを読み、自分で作品や作曲家の背景も調べ、しかし、頭でっかちにならず、自分の直感を信じて解釈しましょう・・・というご提案なのだが、果たして客席に歓迎されたかどうか自信がない。というのは、昔ながらのピアノの先生は、ともすると自分の解釈を押しつけ、生徒に強要することによって権威を保っているからだ。
欧米の先生も解釈を押しつけることでは同じようなものだが、彼らのレッスンには、必ず理由というものがついてくる。こう弾きなさい、こう解釈しなさい、なぜならば・・・というふうに。生徒のほうは、その解釈に納得できなければ「どうして?」ときく。この「なぜならば」と「どうして」がとても大切だと思うのだ。
講演後は、芸大時代の同級生で福井大学教授の声楽家、松濱先生と駅そばの居酒屋で、福井の地酒とともにおいしい海の幸をたっぷりいただいた。松濱先生とは学生時代にはまったく交流はなかったのだが、共通の友人は多く、昔話に花が咲いた。
翌日は坪田先生の車で一乗谷(福井市街の東南)の朝倉氏の遺跡に。2008年に兵庫県の重要文化財に指定された兵庫県養父郡の旧家は、もともと朝倉氏の親戚すじに当たり、隣の集落には今でも「朝倉」の名前が残っている。朝倉氏は応仁の乱で西軍に参加していたが、その後東軍に寝返ったことによって一乗谷に居城を移し、以降100年間ここを統治した。
私の祖先は羽柴秀吉の山陰征伐で滅ぼされたが、朝倉氏は織田信長との戦いに破れたことによって滅亡した。
一乗谷の遺跡には、朝倉氏の館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人たちの町屋などが川の沿いにところ狭しと建てられていた。現在は、武家屋敷と町屋の一部が復元されている。
朝倉氏の館は「唐門」以外は残っていないが、6400平方メートルの敷地内に17棟が建っていたという。家族それぞれに館と豪華な庭園があり、その広大さに比べ
て、職人の住む町屋の、ほとんど1DKのアパートのような狭さが印象に残った。
ご先祖様を訪問したあとは、我が家の菩提寺でもある永平寺に。かんじんの法堂は、年に1回の禅問答の試験(リーダーを決めるらしい)の日に当たっていてはいれなかったが、中ではチンプンカンプン意味不明の問答がとびかい、緊張した空気が伝わってくる。試験の最後に御詠歌が歌われた。母の葬儀の際にも御詠歌を歌っていただいたので、母に思いをはせながら拝聴した。
大広間ではヴィデオを流していて、若い禅僧たちの修業のもようを紹介している。1 週間のきびしい修業のあと、新米の僧侶たちが高僧に修業中に浮かんだ素朴な疑問をぶつけるシーンがおもしろかった。何をきかれても高僧はあわてずさわがず、釈迦の教えを引用しながら「そんな疑問をもつのはまだまだ修業が足りないためだ」とさとしている。
永平寺はお蕎麦も有名なので、帰りにご馳走していただき、空港から帰路についた。
21日から23日までは、大阪梅田に新しくオープンしたサンケイ・ブリーゼで、「ラ・フォル・ジュルネ」のプロデューサー、ルネ・マルタンが企画した「ショパンの音楽日記」を聴く。途中で大阪音大の仕事を入れたので、全部は聴けなかったが、8歳のときのポロネーズを皮切りに、一説には絶筆といわれているマズルカまで、ショパンの全ピアノ曲が6人のピアニストによってメドレーで演奏された。最年長はアンヌ・ケフェレック、つぎがエル=バシャ、あとは若手で児玉桃、フィリップ・ジュジアーノ、ルネ・マルタンお気に入りのヌールブルジェとイド・バルシャイ。
結果的には、『舟歌』や『バラード第3番、第4番』『スケルツォ第4番』など、音楽的にむずかしい作品を見事に演奏したケフェレックの一人勝ち。大曲だけではなく、たった一曲の短い『ノクターン作品9−1』でも、左手と右手の絶妙なルバートを駆使して堪能させてくれた。技術的には超絶技巧とはいいがたい彼女の演奏に盛大な拍手を送った大阪の聴衆は耳が肥えている。
対してエル=バシャは、年齢は重ねていてもこじゃれた雰囲気で聴かせるピアニストではなく、どちらかというとがっちりした作品に向いている。とりわけ『幻想曲』は深い感動を呼ぶ名演だった。
ヌールブルジェはまだ十代のときに『練習曲作品10・25』を全曲録音した天才だが、さすがに朝っぱら(午前11時)から『練習曲作品10−2』を弾くのはむずかしかったようだ。イド・バルシャイはまるで19世紀のピアニストのような自在なルバートが売りの若手だが、『幻想ポロネーズ』はあきらかにやりすぎ。『華麗なる大円舞曲第1番』や『遺作のワルツ』でも、盛大な拍手は受けていたが、指はぼろぼろで音楽はぐずぐず。疑問の残る起用だった。
日本から唯一出演の児玉桃さんはメシアン・プロジェクトで好評を博しているが、ショパンはやや粗く、CDにも録音している『ソナタ第3番』は、スケールの大きな演奏ではあったが、あまり胸を打つものではなかった。おそらく、スケジュール的にきびしい中でやりくりした結果だろう。
ひとつのプロジェクトの中でバリバリの若手からベテランまでを並べて聴くと、ますます演奏というのは単に技術ではなく、その人の精神性やものの感じ方、考え方、それまで積んできた努力や経験がモノをいうのだということを思い知らされる。
29日は大阪音大でレッスンし、次の日に関空からパリに発つ。12月7日にマルセイユ音楽院時代の同級生の家で小さなサロン・コンサートが予定されていたためだ。
同級生はクリストフ・ジョヴァニネッティといい、マルセイユ音楽院を卒業後ルーマニアに留学、帰国後はパリ音楽院の室内楽科で研鑽を積み、イザイ弦楽四重奏段を創設してエヴィアンの国際コンクールで優勝している。イザイは順調に国際的なキャリアを積んでいったが、クリストフは途中で退団して別のカルテットのメンバーと新たにエリゼ弦楽四重奏段を結成、ヨーロッパやカナダなどで活発な活動をつづけている。
実は、《ドビュッシー・シリーズふたたび》の第1回で彼を招くつもりでいたのだが、招聘先の問題その他で立ち消えになってしまった。今回はそのおわびを兼ねて、ドビュッシーの『ヴァイオリン・ソナタ』と武満徹のデュオ曲を共演し、私はドビュッシーや武満のソロ曲を演奏することにした。
ジョヴァニネッティ家は、パリから汽車で30分ほどのサン・ルー・ラ・フォレというイール・ド・フランスの可愛らしい町にある。農家を改造した家は広大で、花が咲き乱れる中庭の奥には100人ほどを収容するサロンがあり、ルーマニアの現代画家の美しい作品で飾られている。ピアノはイタリアのファツォーリの小型グランドで、タッチは多少重たいが、美しい響きと歌うような音が特徴だ。
プログラムはちょうど一時間で、教会のミサに行く人のために午前11時はじまり。地元の人をはじめ、近郊の町に住む日本人の画家夫妻やパリの高等地方音楽院に学ぶ学生さん達、HPの読者でエコールノルマル音楽院に学ぶ声楽家・渡辺健一さん、パリ近郊のナンテールでサロンを開いている斉藤真由美さんなど多彩な顔ぶれ。
マルセイユ音楽院時代の同級生で、現在はソルボンヌ大学の専任講師というジャンヌ・ルーデや、クラヴサン奏者のエリザベット・ジョワイエも応援にきてくれた。おっと、エリック・ハイドシェックがわざわざ来てくれたことも書いておかなきゃ。 コンサートのタイトルは、「フランスと日本の文化の親密性」。私はジャポニズムを意識して、阿佐ヶ谷で買った赤字の羽織にパンタロン、クリストフは茶系のルーマニアの民族衣装っぽい上着。
オープニングとして、いずれも水にまつわるドビュッシーの『水の反映』、武満の『雨の樹素描』をつづけて演奏した。日本の《ドビュッシー・シリーズ》では、どこからドビュッシーでどこからが武満かわからなかった聴衆がいたのだ。
ついで、プロジェクターを使って武満とシュールレアリスムの詩人、瀧口修造とのかかわりを解説(もちろん、フランス語で!)し、瀧口の詩集のタイトルでもある『妖精の距離』(デュオ)や、その中の詩のタイトルからとられた『遮られない休息』(ソロ)を演奏していった。
次に、ドビュッシーと東洋美術やガムラン音楽との出会いをいろいろな映像を使って解説しながら、ジャワのガムランに触発された武満の『フォー・アウェイ』、東洋と深いかかわりをもつドビュッシー『映像第2集』(さまざまな鐘がペンタトニックで響きあう「葉末を渡る鐘の音」、アンコール・ワット寺院にヒントを得た「しかも月は廃寺に落ちる」、日本の蒔絵の箱がイメージ源の「金色の魚」)をソロで弾き、最後に『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を演奏した。
クリストフとは、たしかマルセイユでオーボエ奏者と3人で室内楽のコンサートを開いて以来のはずだが、30日に到着してすぐにジョヴァニネッティ家に住み込み、特訓した結果、ぴったり息が合い、客席ではブラボーがとびかった。アンコールには、これも1週間で特訓したデュオ版の『レントよりなお遅く』、私は北原白秋に捧げた山田耕作『からたちの花』のピアノ版を弾いておしまい。
地元の男の子からとても美しいバラの花を贈られた。
終演後は中庭でサングリアのパーティ。赤ワインにグレープフルーツなど果物を入れ、暖めた飲み物はとてもおいしく、身体が温まる。キッシュや小さなタルト、チョコレートケーキなどで楽しい歓談のひとときだった。
ソロの曲で評判がよかったのは、武満の『雨の樹』や『フォー・アウェイ』、ドビュッシーの『金色の魚』。とりわけタッチのコントロールや響きの色彩感に注目が集まった。ファツォーリじたいが色彩感豊かな楽器で、サロンの響きがよいので、私としてはそれをコントロールするだけだったのだけれど。武満の『遮られない休息』は、浜離宮ではとても評判がよかったのだが、サロンの聴衆には少しきびしかったようだ。武満作品の日本とヨーロッパでの受け取られ方の違いなども少し感じた。
エリック・ハイドシェックはソナタをとても気に入ってくれたらしく、まるで30年来のデュオのようだとほめてくれた。実は、30年「ぶり」だったのだ! |